黒豆マドレーヌの「三福田」(さんぷくでん)


三田の名の起こりは、うっかりミタと読みそうになるが実はサンダ

朝廷献上米を作る屯田(みた)か伊勢神宮の神田(みた)からおこったといわれるのが東京都港区の三田(みた)と言う地名。さて、兵庫県の三田(さんだ)の名の起こりは何なの ? 有力説は最後にご紹介するにして、先ずは福々しい通説から…

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三田の名の起こりは仏像から ?

三田市の古刹金心寺、国指定重要文化財本尊弥勒仏坐像は1932年(昭和7年) に文部省調査がおこなわれ、胎内から墨文字が発見された。『当地は松山の庄と号す。これを金心寺三福田の三田(さんでん)を以って三田(さんだ)と改む。』とあった。
現在の金心寺のすぐ裏と表左右にはフラワータウンなどの住宅地が立ち並んでいる。1869年(明治2年)にこの地に移ったとされるが、元々は現在の三田小学校近くの屋敷町から有馬高校一帯に広がった七堂の大伽藍だともいわれる。
 665年に唐から帰ってきた藤原鎌足の子である定慧(じょうえ)という僧侶が、この地を所領していた兄の有馬皇子の菩提を弔うために建立したという伝説が残されている。
定慧は鎌足の子として育てられたが、本当は孝徳天皇の子である。天皇の后は有馬皇子をお生みになり、その五年後に定慧をご懐妊された母の小足(おたらし)姫は鎌足に下賜された。定慧の生母小足姫は今の神戸市北区道場町日下部付近の出身とされる。
 また金心寺の弥勒仏坐像は、法隆寺金堂、広目天像や百済観音の作者とも言われる飛鳥時代の仏師・漢山口直大口(あやのやまぐちのあたいたいこう)が作ったとされる。

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時代はくだり織田信長に叛旗を翻した荒木村重追討のため、北摂に残る旧村重残党の一掃を狙った羽柴秀吉により、寺の伽藍に攻めの戦火がおよんだ。その時、本尊弥勒仏坐像は戦火を逃れるため、蓮池に投げ入れられた。伝説では像が自ら歩いたとされる。その蓮池が現在の三田小学校南側に位置する「大池」である。

村上水軍にも勝利し、「海の王者」と成った九鬼家ですが、幕府が介入して領地替えを命じます。志摩鳥羽から、摂津三田で三万六千石へ。涙を呑んで内陸への異動を受け入れます。海への想いは忘れられず、参勤交代で江戸へ向かう時は遠回りして鳥羽を通ったとか。
三田城そばの大池に船を浮かべ、水軍の心掛けを忘れまいと演習を繰り返したとか。「山の海賊」九鬼家は「海の海賊」に戻れる日を願っていたのだろうか。

三福田は「敬田・恩田・悲田」

本尊弥勒仏坐像胎内から発見された三福田とは「恩田、悲田、敬田」の意味の仏教語。
三福田は供養することによって福徳が得られる三つのものを田畑に譬えたもの。農民が春、田畑に種子を蒔き、秋に収穫を得るように、徳を積んで果報を受けることが人間にとって真の幸福とされる。
1つ目は、敬田。仏・法・僧の三宝を敬うことです。仏・法・僧の三宝を敬うと無量の福徳が得られるとされています。
2つ目は、恩田。恩を施してくれた父母・先祖の恩に報いることで福徳が得られるとされています。
3つ目は、悲田。周囲の人々に施しをし、さらには無縁の精霊に対しても供養の心を忘れず行えば、福徳が得られるとされています。

悲田

「悲田」とは慈悲の心で哀れむべき貧窮病者などに施せば福を生み出す田となるの意。聖徳太子が四天王寺に建てたと伝えるが、723年(養老7)興福寺に施薬院とともに建てたのが悲田院で、身寄りのない貧窮の病人や孤老を収容する救護施設を設けた。光明皇后もまた施薬・悲田の二院を設けている。平安京には左・右京に官営の悲田院が置かれ、京中の病者・孤児などを収容した。

では有力の説は?

この地方には有間皇子の屯倉(みやけ)があったことで屯田(みた)があり、三輪神社の神田を御田(みた)からか『みた』の地名は存在したようである。文献に残る三田の表記は秀吉による金心寺焼失後からのことである。
 有馬則頼(1533天文2-1602慶長7)が三田(さんだ)という表記を定着させたという説が有力のようです。則頼の出生は播磨国三津田(満田城)。1558(永禄元)年父重則の討死後、姉が嫁いでいた阿波の三好家を頼る。のちに播州に戻って淡河城主となり1577(天正5)年播州へ進出した羽柴秀吉に降り、以後秀吉に従う。1598(慶長3)年の秀吉没後は徳川家康に属し、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いでも徳川方に参じ、戦後、摂津三田3万石を与えられた。次男有馬豊氏は福知山藩、後に久留米藩21万石の藩主となる。

三津田(みつた)城(満田城)は父有馬重則、則頼の出城として20数年勢威をふるった地。関ケ原は67歳の高齢で参戦して、三田の地に居城。故郷の三津田と新天地の三田、「三津田・みつた」と「三田・みた」の混乱を避けるために音読みと訓読みの違いをつけて「さんだ」としたようである。

因みに、競馬の「有馬記念」に名を冠している有馬は中央競馬会理事長を務めた有馬頼寧(よりやす)が発案のレース「中山グランプリ競争」に、理事長のまま没した有馬頼寧の名を冠する様にしたもの。頼寧は摂津有馬家の出身で有馬則頼の子孫にあたる。
 大正年間には、社会運動や奉仕活動に目覚め、多額の私財を投じる。結果、有馬家の家計が傾いてしまい、父親が死去した1927年には相続税の支払いに困窮した。座右の銘は、「もろもろの 心 柳に任すべし」。

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