黒豆の最高品種・丹波黒を甘納豆に仕上げて、丹波大納言小豆の餡をざっくりとソフトにからめた二種類のフィリング。衣をかさねるイメージのパイ包みにしました。
丹波地方の主力農産品でダントツ有名は「丹波黒豆」です。他にも「丹波大納言小豆」「丹波栗」「丹波山の芋」など肥沃な土地と寒暖差のある土地柄を活かした特産品の生産がおこなわれています。丹波盆地の標高200~300m。夏は蒸し暑くて夕立、冬は厳しい底冷え。秋には降霜が発生します。年間の気温差も昼夜の温度差も大きいという厳しい気候条件と、また粘土質の土壌が良質な豆などを育みます。
小豆のなかで最も高級とされる「丹波大納言小豆」
春日局の里 丹波市が「大納言小豆」のルーツ
大納言小豆は収穫期の豆のさや色にその特徴があり、「白さや」「茶さや」「黒さや」と地元では呼ばれています。総称して「丹波大納言小豆」と呼ぶのですが、そのなかでも「黒さや小豆」は由緒ある最高級品です。角が四角ばっているので、積み上げることができるのも特徴のひとつ。その値段は、北海道産の大納言小豆の10倍近く、同じ丹波産の2~3倍と高いようです。
ヒカゲツツジの咲く兵庫県100名山の三尾山登山口・丹波市春日町東中に「丹波大納言小豆発祥之地」と刻した立派な石碑が立っています。いまから300年以上前の宝永二年(1705)、この地で採れる高品質の小豆に着目した藩主・青山氏が(当時亀岡藩、後篠山藩に移封)、精選した小豆一石を幕府に献納したところ、幕府はそれをさらに京都御所に献上しました。
丹波産の小豆は形がくずれにくい、皮(腹)が割れない。御所のお方はその特徴を見て「大納言小豆」と命名したというものです。
大納言は、天皇の政務を助ける高級官職で、「殿中で抜刀しても切腹は免れた」というのが命名の由来になっているようです。
以来、明治維新に至るまで、御所に献上された小豆はこの地に産するものだった。明治20年代に丹波大納言小豆の組合ができ、会社で販売をした時代もあったようでが、綿花栽培に押されて衰退しました。その後は自家用として細々と栽培されてきました。
やがて大納言を冠した小豆は全国各地で生産されるようになり、小豆の一大産地である北海道産が相場を左右するようになったのです。
その丹波の春日は、徳川家光の乳母「春日局」(斎藤福)出生の地
斎藤福は明智光秀の側近で斎藤利三の娘です。後に小早川秀秋の家老、稲葉正成の妻となった人です。
父斎藤利三は本能寺にて信長を討った後、中国から引き返してきた羽柴秀吉との山崎の戦いでは先鋒として活躍するが、敗れて逃走します。その後、秀吉の執拗な捜索により近江堅田で捕縛されました。梅雨時だったため暑さにあたって病となり、衰弱していたということです。秀吉の命令で六条河原斬首となり、磔にされたともいわれている。享年49歳。
その利三の子である福は幼少の頃に父を亡くしたので、祖母の実家である三条西家で身分を隠すため下働きとして奉公しました。後、母と共に母の実家である稲葉家で育ちます。夫・稲葉正成が浪人している際、将軍家で乳母を捜しているという話をもらい、正成との婚姻関係を維持したまま徳川家に奉公にあがりました。当初、乳母としての勤めは数年程度という予定でしたが、家康にその力量を認められたことなどから長期に渡り乳母として江戸に留まることになりました。次第に将軍家の世継を育てることに大きな使命感を抱くようになったのです。