幻の三田青磁。その美しさは土型成型という技術と深い色目の姿から、日本一で一番美しい青磁と言われています。その名陶にちなんで「美しきかな」と名付けたな古典的なシェル型マドレーヌ菓子。伝統の技を伝える一品です。
語りかけるような三田青磁の流れる草花文様に思いを馳せ「花語り」はうまれました。焦がして香り付けしたバターにアーモンドがたっぷり入った、まろやかでコクのあるフィナンシェです。
肥前焼や京焼の伝統を享けつつ三田で花開き、丹波篠山の王地焼や姫路の東山焼に派生した今は無き、幻の三田青磁。
そのイメージを重ね合わせて名付けた二品のお菓子。そのダークなオリーブ色が魅力の三田青磁。
以下は白眉で稀有な青磁の成り立ちを紹介します。
三田焼と三田青磁
三田焼は、宝暦年間(1751~64)から昭和初期に至る約180年間に三田周辺で焼かれた陶磁器の総称です。
1799年(寛永11年)から大正初年まで続いた三輪村の三輪明神窯。三輪明神窯跡は、江戸時代の後期(1799年)から、昭和10年代(1936~1944年)まで青磁をはじめ、染付け、色絵、白磁などの製品を生産していました。
1789年(天明9年)から昭和初期まで続いた天狗の鼻窯(志手原焼の開祖小西金兵衛の高弟 である内田忠兵衛が開窯。呉須赤絵写しや赤絵・染付が有名。
1822年(文政5年) から幕末まで続いた虫尾新田窯、天保から昭和初年まで続いた亀井一族の窯など。中でも全国的に有名なのが三田青磁です。
三田青磁
三田本町の豪商神田惣兵衛の財政的バックアップ の下、天狗の鼻窯の内田忠兵衛に京から招いた欽古堂亀祐を加えた名トリオによって創始された銘品です。そもそも青磁というのは、焼き物の中でも最 も製造が難しいものであり、中国や朝鮮の焼き物の歴史においても、ごく短期間製造され たにすぎないようです。
小さな気泡の集合体、青磁の青は鉄の発色 ・変色を伴う化学反応の呈色(ていしょく)です。酸欠状態で窯をたくと、釉薬に含まれた酸化鉄が還元されて青味がかった色になる。その色は、チタンなどの微量元素の多少によって緑が強くなったり青が強くなったりするものらしい。青磁の製作は、こうした極めて微妙なバランスの 上に成り立っているのである。古来、青磁の中でも淡い青のものを好み、特に『砧青磁(きぬたせいじ)』と呼んで珍重されました。
砧青磁は、南宋時代(1127~1279)に浙江省龍泉窯でつくられた青磁のうち粉青色の上手のものを日本で「砧手」と呼んだところからこの名があります。砧青磁の素地は灰白色で、釉薬は厚く掛けられていて、釉肌は粉青色と呼ばれる鮮やかな青緑色をしています。砧青磁の砧という名称は、青磁鳳凰耳花入「千声」(重文)「万声」(国宝)などの形が砧に似ていたためといい、また千利休所持の青磁鯱耳花入(千利休・伊達家・岩崎家伝来・静嘉堂文庫美術館蔵)の「ひびわれ」の砧を打つ「ひびき」にかけて千利休が名付けたとも云われています。
青磁の歴史は浅く、江戸初期に有田青磁が作られたのが最初です。他 にも、平戸青磁・瀬戸青磁・姫路の東山焼があります。しかし、専門家 は三田青磁が我が国における青磁の白眉であるとして絶賛しているのです。わざわざ長崎に送って梱包し直し、本場中国の青磁と偽って売っても通用する時代があったということです。
内田忠兵衛
内田忠兵衛は代々三田本町で畳職人を営む家に生まれましたが、若くして焼き物に魅せられ、志手原村の小西金兵衛のところに弟子入りして呉須窯の陶工になりました。
探求心旺盛な彼は呉須焼に飽き足らず、研究を重ねるうち、1801年(享和元年)、香下村砥石谷において青磁の原石を発見。それ以来、憑かれた様に青磁作りと取り組むよう になり、三輪村に三輪明神窯を開窯します。文化年間の初めには、既に器の外側から少しずつ青磁色が出てきていたのですが、これ以上の研究は自前の資金だけでは無理だと考え、同じ三 田本町の豪商神田惣兵衛に協力を依頼しました。忠兵衛の作品に可能性が感じられたことと、その熱意が伝わって、惣兵衛は出資に応じました。そして、やがて惣兵衛自身も青磁の魅力にとりつかれていくのです。
豪商神田惣兵衛(1763~1838)
神田家は屋号を内神屋といい、代々三田藩の御用商人で苗字帯刀も許される豪商でした。惣兵衛はその神田家へ、才覚を買われて川辺郡中筋村の小池家から養子にきました。彼は才胆ともに抜きん出た人物であったようです。
彼の商才を示すものとして、米相場で一晩に二万両を儲けたという逸話が残っています。 彼のような大口投資家がいたこともあってか、三田の米穀市場は相当発達していたようです。 当時は山の上に櫓を設け、堂島の米相場の値動きを手旗信号で時々刻々播磨方面にまで伝 えるという、今でいう情報通信システムが構築されていました。 神田惣兵衛は手始めに、内田忠兵衛を焼き物の本場肥前有田に行かせました。期待に応え、有田の有する技術の全てを盗もうと一心不乱に研 究を重ねていきました。当時、有田焼は全国最高水準の陶磁器を産出していた反面、 その技術については門外不出とされていました。ところが驚くことに、彼は太一郎と定次郎二人の有田焼陶工を三田にまで連れてきているのです。
肥前藩は1637年(寛永16年)、藩主鍋島勝茂の命令の下、有田焼(伊万里焼)の品質向上と機密保持を進めた。品質向上の為、窯数を限定して粗製濫造を防ぎ、機密保持の 為、職人が自宅で作業するのを禁じ、窯場周辺には職人以外の居住を禁じたほどの徹底ぶりだったようです。
自分の技術に自信を持った忠兵衛は、有田から帰ると惣兵衛と共に京に出かけ、更なる レベルアップを図るべく、当時名陶とうた謳われた奥田頴川の門を叩いたのです。
奥田頴川【おくだえいせん】(1753~1833)
建仁寺の南に窯を開き、呉須赤絵を得意とし、それまで陶器だけであった京焼において初めて磁器を焼いたことでも知られている人です。彼は明末の混乱を避けた中国から亡命した子孫であったが、縁あって質屋奥田家を継いで頴川を名乗っていました。
南画もよくし、1833年(天保4年)に彼が没した時、かねて親交のあった田能村竹田(1777~1835、江戸後期の南画家)は、前年頼山陽(1780~1832、漢詩人、儒学者)を失いこの年 頴川を失い、両腕を失ったようだと言ってその死を嘆いたという。
頴川はそんな名士であったが、二人の熱意は彼を感動させるに十分なものであったらし く、高弟中の高弟であった欽古堂亀祐を三田に遣わすことを約束しました。1810年 (文化7年)です。
欽古堂亀祐(本名土岐亀助)(1765~1837)
京都市東山区本町の丹波屋に生まれている。元伏見 の人形師であったこともあって手先が器用で、造形の技術は精妙を極めていました。以来1828年(文政11年)まで三田青磁の指導にあたり、その名声を不動のものとした後、京都伏見に帰りました。それまでに作成した彼の青磁は、現在に至るまで世上高い評価を得ています。
三田を離れた後、紀州の瑞芝焼や篠山の王地山焼へも招かれて指導に赴きました。文化・ 文政時代は三田焼の全盛期であり、三田青磁のみならず赤絵・染付も大量に生産されています。
その後も亀井貞次郎ら亀井一族によって三田青磁は焼き続けられますが、欽古堂亀祐と神田惣兵衛亡き後は衰退の一途を辿ってしまいます。1874年(明治7年)、三田陶器会社が設立され、出資者の一人であった芝虎山が亀井竹亭と協力して一時は質・量ともに往時の隆盛に肉薄するまでになったのですが、1922年(大正11年)に虎山が没して三田焼の煙は絶えたのです。
三田青磁は、一時は日本を代表する青磁として全国的にその名を知られましたが、このようにして『幻の青磁』となってしまったのです。最近になって、この三田青磁を復活させる試みが行 われています。
(参考:三田市史など)